職業能力開発技術誌 技能と技術 Vol.48 2013年3号 通巻第273号
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-1-この人のことばこのの人ことば 40年前から,生活や就労などの日常活動に支障がある障害を抱えた人たち,なかでも重度の障害を持つ人たちの雇用に積極的に取り組んだ経験を持つ私には,最近の障害者雇用促進への取り組み,障害を持つ人たちへの職業訓練を含む社会進出支援,雇用側である企業への支援,ならびに関連する法整備の進展には目を見張るものがある。その成果として,障害がある人たちに対する社会からの偏見が減少し,障害を持つ人たちの積極的な社会進出が進展していることを大変うれしく思っている。それでも私は当時も今も,“障害者”という言葉とそれと一対に使われる“健常者”という言葉になんとなく違和感を持っている。それでもこの言葉を使わないと一般社会では話が通じがたいことも承知しているので,話や書き物の場合は仕方なくこのような言葉を使っている。 私があるハイテク企業の工場長を務めていた40年前,地域の職業安定所が障害者雇用の促進に取り組んではいたが,今ほどには社会や企業の関心がなかった。せいぜい障害者雇用促進月間になると,県の労働部などが県下の企業関係者を一堂に集めてセミナーを開催するくらいだったと思う。そのため社員130人程度の私の工場が正規社員として,重度の障害を持つ人たちばかりを16−7人も採用して専門職場を作っていたのが目だったのか,テレビ局が取材に来て放送したり,労働大臣表彰をいただいたり,時には障害者雇用促進月間のセミナー講師を依頼されたりした。 そのような場合私は,「障害者に関する問題には2つの悲劇がある」と切り出すのを常としていた。その1つは“いわゆる障害者”といわれる人たちが,その障害がゆえの不自由に,「自分は障害者だ」と悲嘆に暮れ,あるいは社会の表舞台を避けて生活しようとしていたこと。他の1つは,“いわゆる健常者”といわれる人たちが,自分は障害者ではないという立場から,“いわゆる障害者”を特別な目,差別的な目で見る,あるいは無関心でいることであった。 私は当時も今も“人間みんな障害者”と認識している。その障害が目に見えるかどうか,日常生活で直接的に不自由があるかどうかの違いが有るだけで,人間はだれもが何らかの欠陥,つまりは障害を持っている。スポーツが不得意な人もいれば,算数や理科が不得意な人,動作が敏捷な人もいれば緩慢な人などもいる。日常生活に不自由があるのは本人の問題ではなく,社会の整備,配慮が不十分であるからにすぎない。すべての機能,能力が完全な人間などどこにもいない。“欠陥があるからこそ人間”であり,“完全なのは神様”だけである。さらに今時点で目に見える障害がなく“健常者である”と思っている自分が,いつ事故や病気その他の理由で自分が差別的に見ている“障害者”になるかもわからない。あるいはそのような子どもを持つことになるかもわからない。 私はこの“2つの悲劇”への対応として次のように主張してきた。 まずは“いわゆる障害者”と認識している人たちに対して,「人間みんな障害者。人間である限り誰にでも欠陥がある。まずはありのままの現実を素直に認めて受け入れよう。失ったもの,無いものねだりをしても仕方がない。そのようなことに悩みエネルギーを消耗するより,残っているもの,今あるもの,これから伸ばすことができる機能や能力に注目し,それを精いっぱいに鍛え,伸ばし,最大限に生「人間みんな障害者」株式会社日本コンピュータ開発 相談役最高顧問高瀨 拓士

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